「フッ素は猛毒、規制すべきだ」。反フッ素を信じ続けた女性の末路

「フッ素は猛毒、規制すべきだ」。反フッ素を信じ続けた女性の末路

1D編集部
2022年1月6日
フッ化物によって、う蝕を予防することができる。これは科学的事実である。現に、フッ化物の応用による便益を、ほとんどの国民は享受している。

一方で、「反フッ素」なる思想を持つ人びともいる。反フッ素は、「”フッ素はヒトにとって有害である” という基本的な考えに基づき、個人および社会に対してフッ素の危険性を訴える主張の総称」と定義できる。

1D編集部では、とある女性を取材した。SNSを中心に「反フッ素」の活動を繰り広げる、A子さん(仮名)だ。彼女は過度にフッ素を嫌い、Instagramで自身の考える健康法を広める活動を行なっている。彼女はなぜ、反フッ素の思想を持つに至ったのか。

フッ素は猛毒、規制すべき」

A子さんは、シンプルな服装に上品な笑顔が印象的な、見た目は至って普通の女性だ。少し話をするだけで、知的レベルが高いことがうかがえる。彼女はわれわれに、いかにフッ素が危険な物質か、歯科医師がいかにフッ素という毒を広めているのかを語ってくれた。

フッ素は猛毒です。ハロゲンって知ってますか?ハロゲンの物質は基本的に猛毒ですが、フッ素はその仲間です」。彼女は熱弁を続ける。

「体内に取り込まれたフッ素は、松果体に蓄積され、脳を石灰化していきます。すると脳神経に悪影響を与え、老化や認知症、多動症、睡眠障害が起きます。フッ素毒性は、ハーバード大学の研究でも既に明らかです」。

彼女が否定しているのは、フッ素だけではない。新型コロナをはじめとする各種疾患に対するワクチン接種、原子力発電所の稼働、行き過ぎた資本主義社会。これらの事柄に対する否定が、彼女の思想だ。

「政府や国際機関は、既に機能不全に陥っています。マスメディアも、ウソしか報道していない。自分の健康は自分で守るしかないと感じています」。

上記にも見受けられるように、「反フッ素的なるもの」は社会に溢れている。それらは「反科学」とも総称することもできる。それではなぜ、「反フッ素的なるもの」は生まれてしまうのだろうか?

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    なぜ、反フッ素は生まれるのか?

    彼女は、「頭が悪いから」反フッ素の思想に至るわけではない。「知識が足りないから」反科学になるわけでもない。

    こうした考え方は「欠如モデル(deficit model)」と呼ばれる。専門家が「正しい知識を与えれば分かり合える」という欠如モデルに基づいて向き合おうとしている以上、反フッ素問題は永久に解決しない。

    欠如モデルが前提としているのは、「知識があれば、知識に基づいて行動する」という原則だ。裏を返せば、「行動は常に知識によって導かれている」ということになる。この前提に立つと、論理的に歯科医師にむし歯は発生しないということになるから、欠如モデルが誤りであることはお分かりいただけるだろう。

    素朴な教育観に立てば、勉強をすればするほど「正しい」理解に到達し、誤解が解消され、意見が違う者同士でも分かり合える。しかし現実では、知識が増えても共通の理解にはつながらず、むしろ学習者の理解が偏っていく、という現象が起きる。

    人は、自分の思想や考え方に一致する知識を吸収する傾向があるためだ。「見たいものだけ見る」「吸収したい情報だけ吸収する」という確証バイアスが働くため、何らかのきっかけで科学的ではない考え方をするようになった人は、勉強をすればするほど「反科学的」になる。いわゆる「賢い愚か者(smart idiot)」だ。

    「反フッ素」への処方箋

    フッ素、あるいは反フッ素的なるものに、われわれはどのように対抗していくべきか。解決策は、2つあると考えられる。1つ目は科学コミュニケーションのあり方を見直すこと、2つ目は情報設計のあり方を見直すこと、である。

    科学コミュニケーションのあり方を見直す

    科学的事実そのものが、人びとの行動を変えるわけではない。われわれ歯科医療者が注力するべきなのは、フッ化物に関するエビデンスを積み重ねることではなく、その事実でもっていかに患者さんの行動を変容できるかについて考えることである。

    古代ギリシアの哲学者・アリストテレスは、演説に必要なものとして3つの要素を挙げた。

    1. ロゴス(logos=論理)
    2. エトス(ethos=信頼)
    3. パトス(pathos=共感)

    ロゴスは、論理的に事実を説明できるということだ。エトスは、演説をする者とそれを聴く者との信頼関係を指している。そしてパトスは、聴く者が演説に対して共感できるかどうか、である。

    この3要素が効果的な科学コミュニケーションにも求められる要件であり、事実だけを話したところで、「信頼」と「共感」が無ければ患者さんの行動を変容することはできない。こうした科学コミュニケーションのコツの習得が必要だろう。

    情報設計のあり方を見直す

    歯科医師は、歯科医療及び保健指導を掌る。歯科医師法の一行目に書かれている文言だ。う蝕予防のために、フッ化物を適正に応用すべきである。もちろん拒否する人に無理強いできないものの、情報の設計ひとつで、解決できる部分もある。

    例えば、チェアサイドでフッ化物のメリット・デメリットを懇切丁寧に説明した上で、「フッ化物の塗布を受けようと思いますか?」と聞けば、拒否する人の割合は多くなるだろう。

    一方で、かなり簡易的に書くが、「う蝕予防のため、今からフッ化物を塗布します。よろしいですか?」というように伝えれば、ほとんどの人は拒否しない。あたかも当然のことであるような口調で話をすることで、患者さんにとって望ましい選択肢に導くことができる手法だ。デフォルトの選択肢を科学的に望ましいと考えられるものに設定するだけで、解決できるケースもあると言える。

    行動経済学の分野では、こうした手法を「ナッジ(Nudge)」と呼ぶ。歯科医療者が望ましいと考える選択肢に導くという点で、パターナリズム的であるものの、デフォルトの選択肢を撤回できるという選択肢も含有している点で、リバタリアン(自由主義)パターナリズムのアプローチである。

    こうした情報設計や伝え方の手法が、歯科医療者に広がっていくことで、より科学的に望ましい選択肢に導かれる患者さんは増えていくだろう。

    「反フッ素的なるもの」克服のために

    「反フッ素」という思想を、単なる知識不足と捉えてはいけない。「科学的根拠に基づいて事実を説明すれば、いつかわかってくれる」という直感的な患者教育観から、われわれは脱却する必要がある。

    患者さんにただ科学的事実を押し付けるのではなく、コミュニケーションや伝え方を見直すことで、彼らが望ましい選択をできるようになる。それは、われわれ歯科医療者の責務である。

    人類が誕生したのは、およそ700万年前と考えられている。700万年の人類史を365日というスケールに当てはめてみると、現生人類の誕生は12月16日ごろだそうだ。およそ400年前に科学が誕生したとするならば、12月31日の23時30分となる。

    科学はしょせん、400年程度の歴史しかない体系である。しかし、歯科医療は科学に立脚した学問であるし、1Dは科学を信じるメディアである。科学の成果を活かすためにも、一般市民とのより良いコミュニケーションのあり方が、今こそ求められているのではないだろうか。

    参考文献

    1. 三井誠『ルポ 人は科学が苦手〜アメリカ「科学不信」の現場から〜』, 光文社新書, 2019.
    2. 那須耕介『リバタリアン・パターナリズムとその10年』社会システム研究, 2016.
    3. ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー〜あなたの意志はどのように決まるか?〜』, 早川書房, 2014.
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    1D編集部は、臨床経験のある歯科医師・歯科衛生士・歯科技工士で構成されています。歯科業界の最新ニュースから歯科医療の臨床・学術情報、歯科医療者のためのライフスタイル記事まで、歯科医療の専門家の視点で、ただしく・おもしろいコンテンツをお届けします。

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    1D編集部
    2026年1月17日
    【1Dのセミナーログ】将来、豊かで安心したライフプランを描くために

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    1D編集部
    2026年1月10日
    【速報】令和7年度補正予算で歯科診療所に一律32万円の支援金

    【速報】令和7年度補正予算で歯科診療所に一律32万円の支援金

    令和7年度補正予算案が11月28日に閣議決定され、医療機関への大規模な支援策が盛り込まれた。1)厚生労働省による今回の予算案では、医療分野における賃上げと物価上昇への対応が重点項目として掲げられている。歯科診療所においても、従事者の処遇改善と物価高騰への対策を目的とした交付金の支給が決定。地域における必要な医療提供体制の維持・確保を図る施策として注目されている。*1)令和7年度補正予算案の主要施策集(厚生労働省)歯科診療所への支援は一律32万円今回の補正予算案の柱となるのが「医療・介護等支援パッケージ」だ。物価高騰や深刻化する人員不足といった医療機関・介護施設の経営課題に対応するため、総額1兆3,649億円という大規模な予算が計上されている。 内訳:医療分野に1兆368億円   介護等の分野に3,281億円医療機関・薬局に対する賃上げと物価上昇への支援には、このうち5,341億円が割り当てられた。この支援策は二つの目的を持っている。一つは医療従事者の処遇改善、もう一つは診療に必要な経費の物価上昇対策である。歯科診療所に対する具体的な支給額は、医科の無床診療所と同水準の1施設あたり合計32.0万円。内訳:賃金分(処遇改善)15.0万円、物価分(物価上昇対策)17.0万円。特筆すべきは、補助率が10分の10、つまり全額補助という形での交付となる点だ。これは医療機関が直面する喫緊の経営課題に迅速に対応し、地域医療の基盤となる提供体制を確保するための重要な措置と位置付けられている。*画像は1)より引用「国民皆歯科健診」に向けたパイロット事業も始動*画像は1)より引用補正予算案では、もう一つ注目すべき施策として、「生涯を通じた歯科健診(いわゆる国民皆歯科健診)パイロット事業」の推進に8.8億円が計上された。この事業は、国民の歯と口腔の健康増進を目指すもので、職域の保険者、事業主、または自治体などが主体となって実施される。具体的には、簡易な口腔スクリーニングを活用した歯科健診と、その結果に基づく受診勧奨を組み合わせた取り組みとなる。実施形態としては、一般健診と併せて行うケースや、特定健診の結果を基に対象者を選定してスクリーニングと受診勧奨を実施するケースなどが想定されており、国民の口腔衛生向上に向けた基盤整備が期待されている。◇今後の動向に注目この補正予算案は、現在開会中の臨時国会での成立を目指している段階である。交付金の具体的な交付時期、申請手続き、必要書類等の詳細については、今後の正式発表を待つ必要がある。歯科診療所の経営にとって重要な支援策となるため、続報を注視していきたい。
    1D編集部
    2025年12月12日
    どうして私だけ。合格率9割の歯科衛生士国家試験に「落ちた」女たち

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    歯科衛生士国家試験の合格率は、例年95%を超える。受験資格が基本的には歯科衛生士学校を卒業した者に限定されるため一概に比較することはできないが、国家試験としては合格率の高い部類に属するだろう。本記事では、歯科衛生士国家試験に不合格になった経験のある女性3名に取材を行った。今回取材に協力してくれたのは、田代さん(仮名・24歳)と斎藤さん(仮名・22歳)、そして松田さん(仮名・31歳)だ。 合格にストーリーがあるように、不合格にもそれぞれのストーリーがある。不合格後も内定先の歯科医院で歯科助手として働きながら合格を目指している人や、学費を捻出することができずに3年以上も受験を続けている人など、数字では語られないバックグラウンドがある。【あなたにおすすめの記事】> 【ルポ】歯科医師国家試験、多浪生の現実> 歯学部を放校になった「30歳・元歯学部生」の末路1年の歯科助手経験を経て合格、田代さん(24歳)の場合田代さん(仮名・24歳)は短期大学の歯科衛生士科を卒業後、2018年の第27回歯科衛生士国家試験を受験したが、あえなく不合格となった。翌年の国家試験を受験して合格し、現在は歯科衛生士として埼玉県内の歯科医院で歯科衛生士として働いている。 明るくハキハキと話す彼女の口から、不合格だった1回目の試験直後のことを語ってもらった。 「私はもともと成績があまり良くありませんでした。試験当日はプレッシャーもあって、問題を解いている最中も ”あぁ、これは落ちたな” と思いながら解いていました。試験が終わって自己採点をしてみると、やっぱり点数が足りていませんでした」。 自己採点で点数が足りなかったため、すぐに諦めがついたと田代さんは語る。すでに地元である埼玉県内の歯科医院に内定が決まっていたが、内定先の院長とも話し合い、歯科助手として採用してもらえることになった。 「翌年、自己採点で合格点を取れた時はものすごく嬉しかったですね。両親と学校の先生、院長先生にもすぐに泣きながら報告しました。あとは学校の同期にも、1年前は私のせいで合格率100%が達成できなかったので、報告しました」と当時の嬉しさを振り返っていた。 ケアレスミスで1点に泣いた、斎藤さん(22歳)の場合斎藤さん(仮名・22歳)は、2020年に行われた第29回歯科衛生士国家試験で不合格となった。斎藤さんは幼少期から介護福祉士に憧れており、高齢者と関わる仕事に就きたいと考えていた。介護職員初任者研修を取得できる高校に進学し、実際に資格も取得した。しかし夜はしっかりと寝たいタイプだった斎藤さんにとっては、夜勤の多い介護の現場に出ることは不安だったようだ。 そこで斎藤さんは、介護の資格を活かすことができる医療系の専門学校を志すようになった。歯科衛生士専門学校に進学したのは、国家試験の合格率が高くダブつくリスクが低いということも決め手だった。 斎藤さんは、自身が落ちた理由について次のように分析する。「学校での成績も悪くなかったし、模試でも合格点は到達していました。でも私はおっちょこちょいな部分があって、問題をパッと見た瞬間に、直感で回答してしまうことがよくありました。模試は難しく感じましたが、本番当日は “なんだ、簡単じゃん” と思いながら解いていました」。 しかし会場からの帰りのバスで自己採点をしたところ、点数が足りないことが判明したという。「自己採点では1点足りませんでした。普通は不適切問題が1〜2問あるので合格はできるかなと思っていましたが甘かった。本番でおっちょこちょいのクセが出てしまって、悔やんでも悔やみきれません」。 国家試験では、1点に泣いた。現在は自宅近くの歯科医院で歯科助手として働きながら、すでに来年の国家試験に照準を合わせている。 「4月中旬から勉強を始めています。国試の麗人と医歯薬の5年分の過去問を徹底的に理解して、わからない箇所には付箋も貼っています。去年は臨床現場で働かなければわからない問題がたくさん出題されていたので、今年は歯科助手として臨床現場に出ながら猛勉強をしています」。 屈辱から雪辱を目指す、松田さん(31歳)の場合今年32歳になる松田さん(仮名)は、高校を卒業後に派遣社員などを経て歯科衛生士専門学校に入学した経歴の持ち主だ。今回取材にご協力いただいた3人のなかでは最年長になる。彼女も、今年の3月に行われた国家試験で1点に泣いた1人だ。 松田さんは、歯科衛生士国家試験を実施する歯科医療振興財団に憤りを覚えている。今年の国家試験では不適切問題による採点除外が一問もなかったためだ。 「毎年、3問くらいは不適切問題になります。なのに今年は1問もない。なぜよりによって、という気持ちが正直がところです」。松田さんは、合格発表直後に不適切問題の検証を行ったという。「周りの友人に協力してもらい今年の問題を見返してみると、10問くらい不適切っぽい問題があったんです。合格基準を考え直してもらおうと歯科医療振興財団に連絡してみましたが、返事はありませんでした」。 さらに松田さんはこう続ける。「私は一度社会人を経験してから、歯科衛生士を目指しています。学校の同期と比べても努力はしていましたし、成績も態度も良かったと思います。私より成績が悪くてやる気も無い20歳そこそこの子が合格しているのに "どうして私だけが" という怒りはあります」。 合格発表日当日、松田さんは内定先の歯科医院で仕事をしていた。「自己採点の結果から、合格できるかどうかは半々だと思っていました。でも不適切問題がないという結末で、不合格に。勤務先の院長に落ちたということを伝えたら "1年間一緒に頑張ろう" とは言ってくれましたが、気持ちをリセットしたいという思いもあり退職しました」。松田さんはいま、週に4日歯科医院で歯科助手として働きながら、来年の3月に向けて勉強を始めている。不適切問題の線引きは?不適切問題の線引きに対する不満を、不合格になった受験生は持っていた。確かに、1D編集部で歯科衛生士国家試験を解いてみたところ、不適切問題の線引きが怪しいと思われる設問も無くはなかった。2019年の社会福祉士国家試験では、不合格となった受験生の声を受けて厚生労働省が問題を再検討したところ、不適切問題が覆るという出来事があった。この時には、厚生労働省が418名の追加合格を出すという結末になっている(外部リンク:厚生労働省)。ただ、歯科衛生士国家試験は一定の知識があれば合格することができる資格試験だ。合格基準もシンプルで、運の要素は少ない。不合格になってしまった人は、知識が不足しているということは否めないと思われる。歯科セミナーなら「1D(ワンディー)」で!日本最大級の歯科医療メディア「1D」では、診療に役立つオンラインセミナーを多数開催中。もっと知りたい臨床トピックから超ニッチな学術トピックまで、参加したいセミナーが見つかります。下記ボタンから、開催中のセミナーを見てみましょう!開催セミナーを見てみる
    Masahiro Morita
    2025年12月11日
    歯学部を放校になった「30歳・元歯学部生」の末路

    歯学部を放校になった「30歳・元歯学部生」の末路

    歯科医師国家試験の合格率は、下げ止まりの状況が続いている。厚生労働省が新規参入歯科医師を削減する動きもあるなかで、各歯学部は合格率の維持、そして優秀な学生の確保に頭を悩ませている。歯科医師国家試験が難化しているしわ寄せは、各歯学部の教員陣、ひいては在籍する歯学部生に及んでいる。臨床実習を含む現実味のないコア・カリキュラムのなかで、詰め込み型の教育を強いられているのが現状だ。多くの歯学部では、学生が在籍できる年数に限度がある。最大で12年間在籍できる歯学部もあれば、1学年につき1度の留年しか許されていない歯学部もある。勉強や実習に付いていけず、在籍限度を超えてしまった歯学部生に待ち受けているのは「放校」と呼ばれる事実上の追放処分だ。1D編集部では、今年で私立歯学部を放校になった「元・歯学部生」に取材を試みた。彼はこの春から地元である東北に帰り、歯科とは関係のない道へ進む。自分に合う職業を探す、ゼロからの再スタートを切ることになる。本記事が、歯学部が構造的に抱える教育上の欠陥に対する問題提起になれば幸いである。「ただただ、両親に申し訳ない」「至らぬ点もあるかと思いますが、本日はよろしくお願いします」。90度に近いお辞儀をして、彼は取材会場に現れた。鈴木さん(仮名)は見るからに真面目そうで、とても礼儀正しい印象の男性だ。彼は今年で31歳になる。2月中旬に発表された進級判定で留年が確定し、大学規定の在籍限度を超えてしまった。教授陣や大学事務にも掛け合ったが、なすすべなく放校という処分を受けた。「この数年間、こうなるかもしれないということは感じていました。今はまだ放校になった実感はありませんが、ただただ、両親に申し訳ないという気持ちでいっぱいです」。淡々とわれわれの質問に答える彼の表情は、勉強や実習の重圧から解放され安堵しているようにも見えた。叶えられなかった夢、守れなかった約束歯科医師になることを約束された人生だった。両親はともに歯科医師で、東北地方の地方都市にユニット10台を超える規模の歯科医院を経営している。1日に訪れる患者数も多く、地元住民から信頼されている歯科医院である。そんな両親の間で生まれ育ち、小学校の卒業文集には「お父さん、お母さんのような歯医者さんになりたい」という夢を書いた。中学・高校は地元で1番の進学校に通い、推薦入試で関東地方にある某私立歯学部に入学した。「子どもの頃から、自分は歯科医師になるものだと確信していました。歯学部での勉強はやればできるだろうという自信もあったので、まさか自分が放校になるなんて微塵も考えていませんでした」。歯科医師の資格を取り、臨床家として経験を積んだ後に両親が経営している歯科医院を継ぐーー。順風満帆に思えた彼の歯科医師としての人生は、歯学部入学後すぐに暗転することになる。「放校確定」までの顛末歯学部に入学した彼を待ち構えていたのは、休むことを許されない歯学部のカリキュラムだ。「歯学部での勉強は、想像していた以上に過酷でした。推薦入試で入学した私は、ほとんど受験勉強をしていなかった。朝が得意ではないということも相まって、1年生の冬には成績も出席も足りないという状態になりました」。人間関係のトラブルもあり、彼は1年生で留年することになる。翌年はなんとか2年生に進級したが、2年生でも留年。その後も毎年のように留年を重ね、5年生から6年生に上がることができず、あえなくタイムオーバーとなった。「歯学部に殺される」という危機感彼には、現在の歯学部の教育に対して主張したいことがある。それは、歯学部での評価方法が成績のみに限定されており、努力や人柄を無視しているということだ。「鬱になり学校に来れなくなったり、最悪の場合には自殺した人も出ています。人格的に素晴らしい人や才能がある人も、歯学部に入ると殺されてしまう」と憤る。さらに、歯学部が歯科医師国家試験の予備校と化している点についても指摘する。「大学側の目的は、国家試験の合格率。学生のことを合格率のパーセンテージとしか見ていません。合格率を上げて、大学の権威を保つということしか関心が無いのだと思います」と続ける。おわりに歯科医師になる資質がない者は、歯科医師になるべきではない。国民や患者に対する責任があるからだ。歯科医師国家試験は、基本的資質を有さない者を弾く機能として、重要な役割を担っている。しかし、弾かれた者にも人生がある。毎年、十数名の「歯のことを10年以上勉強した何でも無い人」が誕生しているのだ。資質を有さないと思われる者には、歯学部低学年時から他のキャリアを提案するなどの大学側の仕組みが必要である。さらに言えば、現在の歯科医師国家試験の合格率偏重の歯学教育は、本当に国民や患者のためになっているだろうか。歯学部が「予備校化」したことで、本来研究や臨床という役割を担うべき大学教員のリソースが国家試験対策に奪われ、本来あるべき大学としての機能を失っていないだろうか。われわれにも正解はわからないが、歯学部が抱える教育上の諸問題は、国民の健康な生活のために、もっと議論されるべきテーマである。※個人特定防止の為、内容やプロフィールを一部脚色しています。
    1D編集部
    2025年12月8日

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