
第一章
やれやれ、また気泡か、と僕は思った。
「練り直しますか?」。歯科衛生士がまるで降り続ける雨を眺めている時みたいな表情で僕に訊いた。
「ああ」僕は頷いた。「そうしてくれ」
完璧な印象というものは存在しない。完璧な入れ歯が存在しないように。
どうせ1回では満足のいく印象なんてのは取れっこない。あるいは取れたとしても、1回でよく噛める入れ歯なんて作ることはできない。
入れ歯というのは、平和な時代の古い機械のように、長い時間を重ねて調整していくものなのだ。
「先生、インプラントはできますか」。患者のおばあさんが僕に尋ねた。
「インプラントはできますか」。僕は少し考えてからこう言った。
「難しいと思う」
なぜなら彼女の顎堤は、まるで風のない日に静かに立ちのぼる小さな煙みたいに頼りない代物だったからだ。
「そうですか」。彼女は少し残念そうな顔をして頷いた。「入れ歯になりますか」
そうなるだろうね、と僕は言った。
印象材をかき混ぜながら、歯科衛生士が戻ってきた。
「お願いします」少しとげとげしい口調で印象材がたっぷりと盛られたトレーを手渡され、僕はそれを彼女の口腔内に当てがう。
2度も3度も印象を取られて、彼女は不快そうだ。まるでトカゲを飲み込んでしまったみたいな情けない顔をしている。
印象材が硬まるまでの数分間、診療室には退屈なオルゴール曲が流れていた。
歯医者のBGMというのは、どうして揃いも揃ってオルゴール曲なんだろう。ビリー・ジョエルやビートルズか、あるいはクラシック音楽でも良さそうなものだ。
「硬まったので取り出しますよ」僕はおばあさんにそう告げて、ゆっくりと印象材を取り外した。
「先生、どうですか?」歯科衛生士が不安げな表情で僕の顔を覗き込んだ。
「いいと思う」僕は続けた。「悪くない印象だ」
*
そのとき僕は32歳で、新宿の裏通りにある歯医者に勤めていた。
控えめに言っても良い歯医者ではない。
3台あるユニットはボロボロだし、院長の男はよく素手で根管治療をした。
スタッフの歯科衛生士も優秀とは言えなかった。スケーリングをするのにすごく長い時間がかかる。まるで歯を一本一本取り外して洗っているんじゃないかという気がするくらいだ。
窓がほとんどついていない雑居ビルだったからか、診療室はトランクルームを改造した刑務所かあるいは刑務所を改造したトランクルームみたいな印象だった。
それでも僕が3年間もあの歯医者に勤務していたのには理由がある。院長の男はポルシェに乗っていたし、一緒に食事に行こうものなら妙に羽振りが良かった。
歯科医師というのは歳を取れば自動的に開業するものだと思い込んでいた僕にとって、彼は手頃な目標だった。
特筆した治療技術も無ければ人望も無い。そんな男でも、ポルシェに乗れる。そう思えば歯科医師という仕事を頑張ることができた。
しかし今では、そんなことは間違いだったとわかる。何故なら僕は、院長より治療技術も無ければ、人望も無かったからだ。
*
「それで、今日は?」僕は回転式の椅子に座りながらおばあさんに尋ねた。「今日はいったい?」
入れ歯を無くした、と彼女は答えた。僕はめまいがした。まだ作ってから3ヶ月も経っていない。
「どこで無くしたんですか?」僕はなるべく自分の感情を出さないように問いかけた。
やれやれ、と僕は思った。それじゃ入れ歯を作る意味がないじゃないか。
「旅行に行った時に無くしたんだと思います」
「なるほど」僕は言った。「どこに旅行へ?」
「おとといまでヴェネツィアに行っていました」
「なるほど」僕は探してもらうことを諦めた。
それから彼女はヴェネツィアでの思い出をいくつか語ってくれた。カナル・グランデ大運河でヴァポレットに乗ったこと、リアルト市場についた頃には入れ歯が無くて何も食べられなかったことなどだ。
彼女は悪びれる様子もなく、実に楽しそうに話した。
「もう一回型取りするよ」僕はため息をついて歯科衛生士に印象材を練るよう伝えた。
「入れ歯だと無くしちゃうから、インプラントが良いわ」
僕は聞こえないふりをして、カルテを書いた。
診療室にはまだ、退屈なオルゴール曲が流れ続けていた。