
妊娠中の歯科レントゲンは大丈夫?パノラマ撮影の可否と注意点
ある日の臨床で、妊娠中と思われる患者が激しい歯痛を訴えて来院した。レントゲン撮影で原因歯を特定して適切な処置を施すべき状況であったが、「妊娠中にX線を浴びても大丈夫だろうか」という不安が頭をよぎる。過去に妊婦への対応で撮影を控えた結果、痛みが悪化して緊急処置に追われた苦い経験もあり、判断に迷いが生じたのである。歯科医師として母子の安全を最優先に考える一方、的確な診断なしに処置を行うリスクとの板挟みに陥り、診療の手が一瞬止まった。実はこのような場面は誰にでも起こり得る。妊娠中の患者に対する歯科レントゲン撮影を巡っては、患者の不安や世間の誤解も根強く、臨床判断に慎重を期すあまり必要な治療を遅らせてしまうケースも散見される。本記事では、妊娠中の歯科X線撮影、とりわけパノラマエックス線写真の可否と安全対策について、臨床と経営双方の視点から客観的なエビデンスに基づき解説する。読者が翌日から安心して適切な判断が下せるよう、科学的根拠と現場での実践知を統合して考察する。
目次
要点の早見表
項目 | ポイント |
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胎児への被ばく | 歯科用X線撮影の胎児被ばく線量は極めて微量である。例えばパノラマ撮影1回の実効線量は約0.04mSv(ミリシーベルト)と推定され、腹部から離れた頭頸部への照射であるため胎児への直接被ばくはほぼゼロに近い。防護エプロンを使用すれば散乱線も遮蔽でき、胎児への有害影響は理論上ほとんどない。 |
臨床上の適応判断 | 緊急性の高い歯科疾患は妊娠中でもX線撮影を行う。とくに感染や外傷の疑いがある場合、画像診断を避けることによるリスクの方が大きい。妊娠中期(安定期)は治療の適期であり、この時期に必要な処置と撮影を進める。不要不急の検査は妊娠初期(〜15週)および後期(28週〜)では可能な限り避け、出産後に先送りする選択肢も検討する。 |
撮影時の防護策 | 撮影時には患者に鉛製の防護エプロンを着用し、腹部と甲状腺部位を遮蔽する。照射範囲は必要最小限に絞り、適正な露出条件で撮影してALARA原則(可能な限り低い線量で実施)を徹底する。近年のデジタルX線装置は被ばく線量が低減されており、画質を損なわない範囲でさらなる線量低減設定を活用する。スタッフも防護隔壁の利用や線量管理バッジの着用など法令に沿った被ばく管理を遵守し、被ばく線量の記録を行う。 |
患者への説明と同意 | 妊娠中でも歯科レントゲンは安全性が高い根拠(被ばく線量の極小ささや国内外のガイドラインの見解)を患者にわかりやすく説明し、安心して治療を受けてもらうよう努める。撮影の必要性が高い場合のみ実施する方針であることを伝え、患者の同意を得た上で最小限のコマ数にとどめる。万一、妊娠に気づかず撮影を行った場合も、得られているデータを示して冷静に説明し、不安を緩和する。 |
経営面の視点 | 妊婦の歯科診療ニーズに対応できることは医院の信頼性向上につながる。安全な撮影体制の整備(防護具の完備、スタッフ教育、機器校正の徹底)により、妊婦健診や産科からの紹介患者にも対応可能となり機会損失を防げる。一方で不要な検査を控える判断も重要であり、患者ファーストの対応が結果的に医院の評判を高める。被ばく低減策や記録管理は法令遵守の観点からも不可欠である。 |
理解を深めるための軸
妊娠中のX線撮影を巡る判断には、臨床的な軸と経営的な軸という2つの視点が存在する。臨床的な視点では、胎児への放射線影響を最小限に抑えつつ母体の口腔健康を守ることが課題となる。虫歯の進行や歯性感染症を放置した場合、母体の全身状態や妊娠経過に悪影響を及ぼすリスクがあるため、必要なレントゲン検査を正当化する十分な理由がある。つまり「被ばくリスク vs. 治療遅延リスク」の天秤を科学的データに基づいて比較検討することになる。一方、経営的な視点では、患者の安心と医院の信頼確保が軸となる。妊婦への対応を誤ればクレームや不信感につながり、ひいては医療訴訟リスクや患者流出にもなりかねない。適切に対応すれば地域の産婦人科から積極的に患者を紹介してもらえる機会にもつながり、医院の評価と収益基盤を強化できる可能性がある。この両軸は一見別の課題を扱うように見えるが、本質的には「科学的根拠に裏付けられた安全な診療」を追求する点で一致している。被ばく線量の厳密な管理やスタッフ教育の徹底は患者安全の向上につながり、それ自体が医院経営のリスク低減策でもある。両者の視点を統合し、エvidenceに基づく安心安全な医療提供を実現することが、妊娠中のレントゲン撮影における最適解となる。
トピック別の深掘り解説
代表的な適応と禁忌の整理
歯科レントゲン撮影の適応について、妊娠中であっても明確に必要と判断されるケースは多い。例えば、急性の歯痛や感染が疑われる場合には、原因を特定し適切な処置を行うための画像診断が不可欠である。放置すれば細菌感染が拡大し、母体の発熱や全身炎症を引き起こして妊娠経過に悪影響を及ぼす可能性もある。外傷による歯の破折や脱臼の際も、骨折線や異物の有無を評価するためX線写真が必要となる。また、親知らずの急性症状(智歯周囲炎)や根尖病巣の疑いがある場合も、画像なしでの処置は困難であり、妊娠中でも撮影を行うことが正当化される。一方で禁忌ないし慎重に判断すべき状況としては、緊急性や必要性の低い検査が挙げられる。症状が軽微で出産まで進行しない見込みの高い小さな齲蝕の定期チェックや、特に問題を感じていない親知らずの位置確認など、診療上ただちに情報を要しないレントゲン撮影は先送りが望ましい場合がある。とくに妊娠初期(妊娠15週まで)は胎児の器官形成期であり、理論上は放射線の影響に最も感受性が高い時期とされるため、緊急でない検査はこの時期を避けるのが通例である。また妊娠後期は胎児の体格が大きくなり母体の体調管理も難しくなるため、長時間の診療やストレスは可能な範囲で減らした方が良い。例えば臨床では、妊娠8ヶ月の患者に対して計画的な親知らずの抜歯とパノラマ撮影を出産後まで見送ったケースや、妊娠初期に軽度の虫歯が見つかったものの応急処置のみに留めてレントゲン検査と本格的治療を安定期まで延期した例が報告されている。要するに、妊娠中のレントゲン撮影は「必要性が高いかどうか」で適応を判断し、不要なものは避けるというシンプルな原則に尽きる。
この原則の裏付けとなるエビデンスについても整理しておく。国際放射線防護委員会(ICRP)や日本産科婦人科学会のガイドラインによれば、胎児への放射線影響は被ばく時期と線量に依存することが知られている。受精後2週未満(着床前)は「All or Noneの法則」と言われ、影響があれば流産となり、影響がなければそのまま正常発育するとされる。一方、妊娠3週〜10週の期間は器官形成が行われるため放射線による奇形誘発の可能性が指摘されているが、そのリスクが現実に問題となるのは50~100 mGyを超える線量を被ばくした場合に限られる【産科ガイドライン2020】。50 mGy(ミリグレイ)は放射線診療における胎児被ばく許容線量の一つの目安であり、この値以下の被ばくで奇形発生率が上昇しないことが各種研究で示されている。さらに妊娠中期以降においても、胎児の発育遅延や中枢神経への影響といった確定的影響が生じるのは100 mGyを超える高線量の場合であり、歯科領域のX線撮影が問題となるレベルではない。また、かつて妊娠中のX線検査と出生児の小児がんリスク上昇を関連付ける報告(いわゆるオックスフォード調査など)があったが、その後の大規模調査や原爆被曝者の疫学データとの照合によって因果関係は明確に裏付けられていない。総合的に見れば、歯科で扱うX線線量は胎児影響のしきい値をはるかに下回るというのが国内外の専門機関の一致した見解である。ただし、「ごく微量とはいえ放射線はゼロではない」ため無目的な検査は避けるべきとの姿勢も明記されている。要するに、科学的根拠の面からは妊娠中でも必要な歯科X線撮影は安全に実施可能であり、適応さえ慎重に判断すれば過度に恐れる必要はないということである。
標準的なワークフローと品質確保の要点
妊娠中の患者に対する標準的な診療フローを構築しておくことは、臨床現場で迷わないための鍵となる。まず初診時や治療前の問診票にて、妊娠の可能性について必ず確認する項目を設けておく。特に妊娠可能年齢の女性患者には「現在妊娠していますか?またその可能性はありますか?」といった質問を標準化し、患者自身にも認識を促す。もし妊娠中または妊娠の可能性があると申告があれば、歯科医師およびスタッフ間で情報を共有し、診療ユニットやカルテに明確な表示を行う。次に診察の過程でレントゲン撮影が必要かどうかを評価する。この判断は上述した適応基準に則って行い、撮影が不可欠と判断された場合には患者への十分な説明と同意取得に進む。実際の撮影段取りとしては、通常の患者以上に慎重な準備が求められる。具体的には、X線装置の設定を事前に確認し、最小限の被ばくで済むよう管電圧・管電流や撮影時間のパラメータを適切に調整する。デジタルX線機器であれば自動露出制御(AEC)の精度も高いため、過剰被ばくのリスクは低減されるが、念のため手動設定の場合の推奨値を事前に確認しておく。患者には鉛遮蔽入りの防護エプロンを装着し、腹部全体と甲状腺部位が確実に覆われているか位置を調整する。パノラマ撮影の場合、防護エプロンの上端が撮影野に映り込むと画質に影響するため、エプロンが肩口より上にずれないよう注意する。近年の日本歯科放射線学会の指針では、歯科用X線撮影時の防護エプロンは線量低減効果が限定的である一方、心理的安心感を与える利点があるとされている。従ってエプロンは正しく装着しつつも撮影の妨げにならない工夫が重要である。撮影体位にも配慮が必要だ。パノラマX線では通常立位で顎を固定するが、妊婦の場合は体調に応じて無理のない姿勢をとる。妊娠後期で立位がつらい場合には一部の装置で可能な座位撮影も検討する。患者が緊張して動いてしまうと再撮影が必要になるため、リラックスできるよう声かけを行い迅速に撮影を終える。実際の被ばくは瞬時で完了するが、準備段階から丁寧に対応することで一回で確実に必要なカットを撮影することが品質確保の要点である。
撮影後は速やかに画像を確認し、追加撮影の必要がないか慎重に判断する。例えばパノラマで病変部が死角に入って写らなかった場合、角度や位置を変えてもう1枚撮り直すこともあり得るが、妊婦相手の場合は極力避けたいところである。必要な情報が得られない際には、小さなデンタルX線写真を追加するか、あるいは臨床症状と総合して治療方針を決定するなどの工夫で再照射を回避できないか検討する。得られた画像は診断・治療に活用するのは勿論だが、保存と記録も重要である。妊娠中のレントゲン撮影を行った場合、その実施理由と撮影した部位・回数、使用した防護策についてカルテに記載しておく。この記録は院内の医療安全管理上も意義があり、後日患者から質問や不安の訴えがあった際にも参照できる。また、2020年の医療法施行規則改正により、CTなど高線量検査では患者ごとの受けた線量管理が義務化されたが、歯科領域でも将来的に被ばく線量の記録が求められる可能性がある。現段階でも自発的に線量記録を残すことは、医療機関としての安全意識アピールにつながるだろう。以上のように、妊娠中患者への対応フローを整備し、撮影前後のプロセスを平時からシミュレーションしておくことで、いざという時も慌てず適切かつ安全な画像診断を提供できる。
安全管理と説明の実務
歯科用レントゲン撮影における安全管理は、患者のみならず院内スタッフや設備環境も含めた包括的な取り組みである。まず患者安全の観点では、妊娠中の被ばく線量を最小化する工夫とともに、仮にわずかな被ばくが発生しても母体・胎児に健康影響が出ないよう最新の知見に基づく対策を講じておくことが肝要である。その一つが被ばく線量の見える化と定期的な機器点検である。X線装置は定期的に出力線量の校正を行い、表示される線量と実際の線量が乖離しないようメンテナンスする。線量測定用の簡易キットを用いて、パノラマ装置から一定距離での散乱線量を測定し、エプロン非使用時・使用時の差をスタッフ間で共有するなど、具体的な数値を知ることは安全意識向上につながる。また、院内で女性スタッフが妊娠した場合の対応指針も定めておくとよい。歯科診療所における放射線防護責任者は通常院長(歯科医師)が務めるが、妊娠中のスタッフが従事する場合は電離放射線障害防止規則に基づき、胎児が受ける職業被ばく線量が月あたり1 mSvを超えないよう作業環境を調整する必要がある。具体的には、妊娠中の歯科衛生士に患者のX線撮影時は必ず退室してもらう、被ばくの多い業務(例えばCT撮影補助など)がある場合は担当から外す、といった配慮が求められる。これらは院内の労務管理上も重要なポイントであり、スタッフの安心感が結果的に患者へのより丁寧な説明につながる側面もある。
次に患者への説明と同意取得の実務である。妊娠中の患者は放射線被ばくに対して敏感になっていることが多く、たとえ歯科の微量なX線であっても不安を抱くのは自然なことである。従って撮影が必要と判断された場合には、事前に十分な情報提供を行い患者の理解と納得を得るプロセスが欠かせない。まず患者に対し、歯科用レントゲンの被ばく線量は日常生活で浴びる自然放射線と比べても極めて少ないことを伝える。例えば「歯科のパノラマ写真1枚で受ける放射線量は、私たちが普段に1〜2日間で自然に浴びている放射線と同程度です」といった具体的な例えは実感を持ちやすい。日本人は年間約1.5 mSvの自然放射線を受けているため、0.04 mSv程度のパノラマ写真は50分の1以下である。また、日本産科婦人科学会のガイドラインで「50 mGy未満の被ばくであれば奇形など胎児への影響はない」とされている旨も平易な言葉で説明すると安心材料になるだろう(50 mGyという数値自体のイメージが湧きにくい場合は「歯科のレントゲンを一万枚以上まとめて撮らないと届かないレベルの線量」といった補足も有効である)。次に、なぜそのレントゲン撮影が必要なのかを明確に伝える。例えば「痛みの原因を正確に突き止めるにはレントゲンが欠かせない。このまま原因不明のままだと適切な治療ができず、かえって母体に負担がかかる可能性がある」といった因果関係を丁寧に説明する。逆に言えば「必要性が低い撮影は行わない」という前提を示すことで、患者は「本当に必要だから撮るのだ」と理解しやすくなる。説明に際しては専門用語を避け、放射線量の比較図や妊婦向け歯科治療のリーフレットがあれば活用するのも良い。説明後には患者からの質問を受け付け、不安や疑問が解消されたことを確認してから撮影に移る。同意の取り方については、通常の治療同様に口頭で了承を得てカルテに記録しておけば足りるが、患者が特に心配している様子であれば書面で同意をもらうことも検討する。また、事前に産婦人科主治医に照会すべきか悩む場合もあるが、一般的な歯科治療や診断用X線であれば産科医も「問題なく歯科受診してください」というスタンスである場合がほとんどである。必要以上に紹介状のやり取りを行うと患者の手間にもなるため、基本的には歯科医師の判断で対応して差し支えない。ただし、心配性の患者で産科医の了承を得てからでないと不安というケースでは、電話で主治医に確認するなど機転を利かせると良いだろう。万一、妊娠に気付かずに撮影を実施してしまった場合の対応も備えておく必要がある。撮影後に患者から「実は妊娠しているかもしれない(あるいは妊娠が判明した)」と申告があった場合、まずは過度に不安を煽らないよう落ち着いて事実を確認する。撮影した部位と回数、防護エプロンの有無などから胎児被ばく線量を推定し、「今回のレントゲン撮影によるお腹の赤ちゃんへの被ばくは○○という非常に小さな量で、影響はまず考えられません」と具体的に数字を挙げて説明する。必要に応じて参考資料や線量比較データを見せるのも良い。またこの際、「もし何かあっては大変」という思いから安易に人工妊娠中絶を勧めるような対応は厳に慎まねばならない。医療被ばくによる奇形リスクが現実的でないことは周知の事実であり、その点を冷静に伝えることが歯科医師の責務である。説明後、患者がまだ不安を抱えるようであれば産科主治医とも情報共有し、必要なら専門の遺伝カウンセリングなどにつなぐことも検討する。いずれにしても患者の心情に寄り添いながら科学的根拠を示して説明する姿勢が信頼関係を維持する上で不可欠である。
費用と収益構造の考え方
妊娠中の歯科レントゲン撮影というテーマは、一見すると診療テクニックや患者対応の問題に思えるかもしれない。しかし経営的視点から掘り下げると、そこには費用対効果や収益構造に関わる興味深い側面も存在する。まず歯科医院におけるX線装置への投資について考えてみる。一般的なデンタルX線やパノラマX線装置の導入には数百万円単位の初期費用がかかり、さらに定期的なメンテナンス費用も発生する。一方で診療報酬上では、歯科エックス線写真の撮影料は1枚あたりごく限られた点数(数百円程度)であり、装置導入の元を取るには膨大な件数を撮影しなければならない。単純計算ではX線撮影自体で大きな収益を上げるのは難しく、レントゲン機器のROI(投資対効果)は低いといえる。しかし、歯科経営におけるX線装置の価値は直接的な撮影料収入よりも診断精度向上とそれによる適切な治療提供にある。適切な診断が下せなければ適切な治療計画も立てられず、結果的に見逃しや誤診による機会損失が発生する。例えば妊娠中の患者で虫歯を見逃してしまえば、出産後に症状が悪化して大きな処置が必要になるかもしれないし、痛みが出れば妊娠中であっても緊急対応せざるを得ず、よりリスクの高い状況で処置を行う羽目になる。X線装置は適切な時期に適切な治療を行うための「攻めの投資」とも位置付けられるのである。特にパノラマX線は1枚で口腔全体を俯瞰でき、新患の包括的評価や親知らず・埋伏歯の位置確認などに有用であるため、多くの開業歯科医院で標準装備となっている。妊婦に対しても、必要な症例では院内で迅速にパノラマ撮影が行えることが望ましい。もしパノラマ装置が無く外部の医療機関に撮影を依頼している場合、妊婦を別施設に紹介して移動してもらう負担や、他院での待ち時間によるストレスなど患者サービスの低下につながる恐れがある。かかりつけ歯科で完結できる体制は患者満足度という無形の価値を生み、それが巡り巡って医院の評判向上や紹介患者増加という間接的な収益につながる可能性は見逃せない。
また、妊婦への対応力を高めること自体が差別化要因となる点も経営的に注目である。現在、多くの自治体で妊婦歯科健診が推奨されており、母子保健の観点から妊娠中の口腔ケアの重要性が周知されつつある。しかし妊娠中の患者は薬剤や処置への制約もあるため受け入れを敬遠する歯科医院も一部に存在する。そのような中で、安全対策を講じた上で必要な治療はしっかり行うという姿勢をアピールできれば、産婦人科医院との連携体制を築きやすくなるだろう。例えば地域の産科クリニックに「妊婦さんの歯のことで何かあれば相談してください」と情報提供し、緊急時には適切に対応する歯科の存在を周知すれば、信頼関係が構築されお互いに患者紹介が生まれる。これは患者にとってもメリットであり、身近に妊娠中でも安心して通える歯科医院があることは地域医療の質向上にもつながる。経営面では患者層の拡大と稼働率向上が見込め、医科歯科連携による新たなネットワーク形成は将来的な自費診療紹介など波及効果も期待できる。さらに、妊娠中に適切な対応を受けた患者は出産後も引き続きその医院に通い続ける傾向があり、良好な患者関係の継続は長期的な収益源となる。総じて、妊娠中のレントゲン撮影に対して臨床・安全面の配慮を怠らないことは短期的な収支以上に医院のブランド価値を高める投資といえる。
外注・共同利用・導入の選択肢比較
歯科用X線機器の活用については、医院の規模や経営方針により外注(院外撮影)・共同利用・自院導入の選択肢が存在する。妊娠中の患者への対応に照らし合わせながら、これらの長所と短所を比較してみよう。まず外注とは、自院にレントゲン設備がない場合に近隣の医科歯科診療所や放射線診断センターに撮影を依頼する形態である。小規模クリニックや開業直後で設備投資を抑えたいケースでは現実的な選択肢だが、こと妊婦に関して言えばデメリットが目立つ。患者にとっては見知らぬ施設へ行って検査を受ける心理的負担や時間的ロスが生じるうえ、紹介元・先の間で情報共有や結果送付の手間も発生する。また、撮影装置や技師が歯科に特化していない場合、被ばく線量が最適化されていなかったり画像の歪み補正が不十分なこともあり得る。緊急時に即対応できないタイムラグも臨床リスクを高める要因となる。総じて、外注はコスト節減にはなるが患者サービスと迅速性で劣るため、妊婦の急性症状への対応には適さないと言える。
次に共同利用だが、これは例えば地域の歯科医師会やスタディグループで高価な歯科用CTを共同購入し必要時に融通し合う、といったケースが考えられる。パノラマ程度であれば各院導入が進んでいるため共同利用はあまり一般的ではないが、小規模な離島医療など特殊な環境では移動式のデンタルX線装置を地域でシェアするといった工夫も報告されている。妊婦への対応という観点では、共同利用の場合も基本的には外注と同様の課題がつきまとう。やはり患者移動の負担やリアルタイムな診断の困難さは避けられず、よほど頻度が低い検査項目でない限り積極的に採用すべきではないだろう。
最後に自院導入である。既に述べた通り費用面では負担があるものの、診療の質と機会損失防止という利点がそれを上回るケースが多い。妊娠中の患者に対しても院内で完結した検査・診断が提供できる安心感は計り知れない。最近ではアマルガム残存の有無や歯周病精査などでパノラマ写真を撮影する妊婦健診プログラムを設ける自治体もあり、そうした需要にも対応できる体制は地域医療への貢献度という無形の価値をもたらす。さらに被ばく低減機能を備えた最新のデジタルパノラマ装置などは、妊婦に限らず小児や若年女性への配慮として広告こそできないが医院の付加価値になる。自院導入の際には、事前に設置場所の確保や放射線漏洩防止の遮へい工事、行政への設置届出などクリアすべき要件がある点には注意が必要だ。特に放射線障害防止の観点から、壁や床の構造、装置の据付方法に法的基準があるため、メーカーや専門業者と連携して計画を立てることが求められる。導入後も定期検査や安全講習の受講など法令遵守すべき事項が発生するが、これらはすべて医療機関として当然の責務であり、妊婦に安心してもらうための土台作りと捉えるべきである。結論として、妊娠中の患者を含め歯科診療の質を高めるには、可能な限り自院でX線診断を完結できる体制が望ましい。外注や共同利用は代替策にはなり得るものの、患者本位の医療と迅速な意思決定という点で劣るため、最終的には導入を検討する価値が高いと言える。
よくある失敗と回避策
妊娠中のレントゲン撮影に関する対応で、歯科医師が陥りがちな失敗パターンとその防止策について整理する。まず最も多いのは「患者を心配するあまり必要な検査まで避けてしまう」ケースである。例えば妊娠初期の患者で激しい歯痛があった際、「今はレントゲンを撮らない方が良いですよね」と言われて引き下がってしまい、鎮痛剤だけ処方して帰したところ症状が悪化して結局抜歯に至った、というような例である。本来この場面では適切な画像診断に基づき根管治療など歯を残す選択肢があり得たかもしれない。回避策としては、平時から妊婦の被ばく許容量や緊急処置の判断基準に関する知識を院内で共有し、患者の申し出に流されず科学的根拠に沿った説明ができるようトレーニングしておくことが有効だ。逆に「安全だから大丈夫」と高をくくって十分な説明もなく撮影してしまうのも問題である。患者にとっては妊娠中にレントゲンを撮られること自体が一大事であり、何の前置きもなく実施されれば不信感を抱くのは当然である。最悪の場合、後日になって「実は妊娠中にレントゲンを当てられた」と他院や行政に訴える事態にもなりかねない。防ぐには、とにかく事前説明と同意のプロセスを省略しないことである。忙しい診療の中でも5分程度割いて丁寧に説明すれば患者の理解度は大きく変わる。説明内容が難しくならないよう、スタッフがリーフレットを用いてサポートするなどチーム対応をするのも良い。次にありがちなのが、「エプロンの誤使用で再撮影」という失敗だ。妊婦には必ずエプロンを装着するが、パノラマ撮影でエプロンがずれて画像の一部に映り込んでしまい診断に支障が出て再撮影……というのは本末転倒である。対策として、エプロンは肩にかけた後に患者の体型に合わせて首元のストラップをしっかり留め、撮影体位に入った後も再度位置を確認する習慣をつける。特に妊娠後期でお腹が大きい場合、立位ではエプロンの下端がせり上がってくるので、座位撮影に切り替えるか補助具で押さえるなどの工夫をする。スタッフ間の声かけによるダブルチェック体制も有効で、例えば「○○さん、エプロン位置オーケーです」といった簡単な確認をルーチン化すると良いだろう。
その他の失敗例としては、「妊娠の可能性を見逃す」ケースも挙げられる。患者が申告しなかったり自覚がないまま撮影してしまい、後日妊娠が判明して慌てるというものだ。歯科治療では医科のように術前検査で妊娠反応を見る習慣はないため、問診に頼らざるを得ない部分はある。それでも初診時に口頭で念押しする、レントゲン室前にも注意喚起のポスターを貼るなど、多角的に妊娠有無の確認機会を設けることで見落としリスクはかなり減らせる。実際に「生理が少し遅れているがまさか…と思っていたら受付で妊娠の可能性を聞かれてハッとし検査薬を使用、妊娠が判明した」という患者の声もあり、医院側が積極的に確認する意義は大きい。万一見逃しが起きた場合でも、前述のように落ち着いて対応すれば大事には至らないが、未然防止が最善の策であるのは言うまでもない。
最後に、コミュニケーション上の落とし穴にも触れておく。妊娠中の患者はデリケートな状態であり、歯科医師やスタッフの何気ない一言が強い印象を残すことがある。「レントゲンを撮らないと全然わからないですよ」などと事実をそのまま伝えたつもりでも、患者には「撮らない私は悪いのかしら」とプレッシャーになるかもしれない。逆に「絶対安全ですから大丈夫ですよ!」と言い切ってしまうと、後でインターネット情報などを見た患者が「本当に絶対大丈夫なの?」と逆に不安を募らせる可能性もある。回避策は、相手の立場に立った言葉選びをすることである。例えば安全性を強調する際も「絶対」「必ず」といった断定的表現は避け、「現在の医療では問題ないと考えられている」「影響が起こる線量より遥かに少ない」など穏やかながらも根拠を示す言い回しを心がける。患者がレントゲンを拒否した場合も頭ごなしに否定せず、「ご不安なお気持ちはもっともです。その上で申し上げると…」とクッションを置いてから必要性を説くようにすると対立を生まない。コミュニケーションスキルも医療者の重要な資質であり、特に妊娠中の患者対応では技術と同じくらいコミュニケーションが診療成否を左右することを肝に銘じたい。
撮影判断のロードマップ
妊娠中の患者にレントゲン撮影を行うか否かを判断する際には、いくつかのステップに沿って検討を進めると整理しやすい。以下に撮影可否の判断プロセスをロードマップとして示す。
まずステップ1として、目の前の歯科症状の緊急度・重症度を評価する。激痛や腫脹を伴う感染症状、外傷による破折・出血などは一刻を争うため、この時点で「画像診断は必要」と方向づける。一方、小さな齲蝕の疑い程度で痛みもないようなケースでは直ちに撮影せず経過観察も選択肢となる。次にステップ2で、患者の妊娠週数と全身状態を確認する。妊娠初期でつわりが強く体調が不安定なら無理は禁物であり、応急処置で痛みだけ抑えて画像診断と根本治療は安定期まで延期する決断もやむを得ない。一方、妊娠中期であれば体調も落ち着きリスクも低減するため、必要な治療をこの時期に集中させる計画を立てる。妊娠後期の場合は出産が近づき心理的負担が増すため、処置自体を分割して短時間で終わらせる工夫や、分娩後への延期検討も含め慎重に判断する。ステップ3では、実際に撮影が必要と判断した場合の具体的対策をリストアップする。使用する装置の種類(デンタルかパノラマか)、防護エプロンと甲状腺プロテクターの準備、撮影方法(立位・座位)や撮影枚数の最適化など、個々の状況に応じた手順を組み立てる。この段階で患者に撮影の必要性と安全策について説明し、インフォームドコンセントを取得することも忘れない。患者から質問が出た場合はその場で解消し、納得を得られなければ治療方針自体を再考する柔軟性も必要である。ステップ4は実際の撮影実行である。準備した防護策を適用し、スタッフと連携してスムーズに撮影を完了させる。ここでは先述の品質確保の要点を守り、可能な限り1回でクリアな画像を撮ることに集中する。ステップ5は撮影後の評価とフォローである。得られた画像から診断を行い、予定された治療を滞りなく遂行する。加えて、患者には改めて「無事に必要な情報が取れたこと」「想定通り安全に行えたこと」をフィードバックし、安心感を与える。もし患者がまだ不安そうであれば、画像を一緒に見ながら丁寧に説明したり、産科主治医への情報提供を申し出るなど追加のフォローを提供する。最後にカルテに撮影内容や線量、対応策を記録し、院内で今回の対応を振り返っておく。場合によっては院内ミーティングでケースレビューを行い、改善点があればプロトコルに反映することも有益である。このような一連の流れを踏襲することで、妊娠中のレントゲン撮影判断は系統立てて行うことができ、見落としや判断ミスを防ぎやすくなる。ロードマップに沿った決定プロセスを意識しつつ、最終的には「母子の安全」と「確実な歯科診療」の両立というゴールを常に念頭に置いて意思決定することが重要である。
参考資料
- 日本産科婦人科学会・日本産婦人科医会編『産婦人科診療ガイドライン産科編2020』〔妊娠初期の放射線被ばくにおける胎児奇形発生リスクの記載〕
- 国立保健医療科学院 放射線Q&A「妊娠しているときの放射線検査は安全なの?」(2019年)〔医療被ばくと胎児影響に関する解説〕
- 豊橋市歯科医師会『歯科用レントゲンによる被曝について』(ニュースダイジェスト, 2020年8月3日)〔歯科X線の被ばく線量と安全性の一般向け解説〕
- 日本歯科放射線学会『歯科エックス線撮影における防護エプロン使用についての指針』(2015年)〔歯科撮影時の防護エプロンの有用性に関するガイドライン〕
- 髙松潔・宮田あかね「妊娠中の患者に対する歯科治療上注意すべき点」(歯科学報113巻1号, 2013年)〔東京歯科大学による妊娠中の歯科診療に関するQ&A記事〕
(※本記事中の数値・ガイドライン等は2025年10月時点で入手可能な情報に基づいています)