
訪問歯科の歯科衛生士が辛すぎる。「ツラいポイント」を5つ紹介します
訪問歯科診療に従事する歯科衛生士が、ある日ぽつりと「もう限界かも…」と漏らした。通院困難な患者のために自宅や施設へ赴き口腔ケアを提供することは社会的意義が大きく、本人も使命感を持って始めた仕事である。しかし、猛暑の日に重いポータブルユニットを抱えて階段を上り、複数宅を駆け回った彼女の表情には疲労の色が濃い。患者の訴えに耳を傾け、時に嚥下障害や認知症とも向き合い、帰宅後は山積みの書類を整理する――外来とは全く異なる業務の連続に、次第に心身の負担が蓄積していたのである。実はこのように感じている訪問歯科衛生士は珍しくない。
本記事では、訪問歯科に携わる歯科衛生士が「辛い」と感じやすいポイントを5つ取り上げ、臨床面と経営面の双方から課題の背景と対策を解説する。訪問診療チームを率いる歯科医師にとっても他人事ではない問題であり、スタッフの負担を軽減し質の高い在宅歯科医療を継続するヒントとしたい。
要点の早見表
以下に訪問歯科衛生士の主な「ツラいポイント」をまとめる。
辛いポイント | 主な内容と影響(臨床面/経営面) |
---|---|
患者・家族との意思疎通 | 認知症患者は意思疎通が困難で説得に時間を要する。ご家族との治療方針調整にも気苦労が多く、対応に神経を使う。信頼関係構築に時間がかかり、治療中断やクレームに発展するリスクもある。 |
移動・機材運搬の身体的負担 | 多数の患者宅を訪問するため移動距離・回数が増え、体力的疲労が蓄積。重い器材の持ち運びやベッドサイドでの無理な体勢による腰痛リスクが高い。疲労により診療精度の低下やスタッフ離職に繋がる恐れもある。 |
診療環境と業務内容のギャップ | 患者ごとに設備や環境が異なり、外来のような安定した治療環境がない。器具の準備・消毒や訪問記録・請求書類作成など診療以外の業務が多く、本来のケア時間が圧迫される。保険点数の算定ルールも複雑で事務負担が重い。効率を誤ると採算悪化を招く。 |
精神的な負担(メンタルストレス) | 要介護高齢者や終末期の患者が多く、看取りに直面することもある。患者からケアを拒否されたり暴言・暴力を受けるケースもあり、心的ダメージが蓄積する。常に細心の注意と忍耐力が求められ、燃え尽き症候群のリスクも抱える。 |
チーム内人間関係の問題 | 訪問診療は歯科医師・衛生士・助手など少人数で長時間行動するため、人間関係の良し悪しがストレスに直結する。メンバー間で診療方針や仕事観にズレがあると対立が生じやすく、ハラスメントが起これば退職に繋がることも考えられる。 |
理解を深めるための軸
なぜ訪問歯科衛生士に特有の辛さが生じるのかを、臨床的な視点と経営的な視点の二軸で整理する。まず臨床面では、診療環境の違いが大きい。患者の生活空間に入り込んで処置を行う訪問診療では、診療室のような明るい照明やユニット(歯科用椅子)、吸引設備が完備された環境は期待できない。患者の全身状態やその場の生活環境に配慮しつつ処置する必要があり、それ自体が負担となる。たとえば寝たきりの方相手にベッド脇でケアを行う際は、術者は前屈みや中腰の不自然な姿勢を強いられ体勢維持が難しい。一方、器材や衛生材料も携行できる範囲に限られ、滅菌や廃棄物処理も簡便法で対応するなど、外来とは異なる工夫が求められる。さらに訪問では患者本人に加えて家族・介護職・看護師・主治医など多職種との連携が不可欠であり、コミュニケーションに費やす労力が飛躍的に増加する。以上のような臨床環境のハンデを埋めつつ良質なケアを提供するには、高い柔軟性と幅広い知識が要求される。外来診療と比べ「歯を見るだけでは済まない」難しさがあるゆえに、現場の歯科衛生士は戸惑いや重圧を感じやすいのである。
経営面では、時間と収益構造の問題が軸となる。訪問診療は患者一人あたりに要する移動時間・準備時間が長く、1日の対応件数に限界がある。1日あたり3~5件程度に抑えている職場もあれば7件以上こなす所もあり、後者では移動や処置のスピードに追われスタッフの疲弊が顕著になる。訪問1件ごとの診療報酬は在宅歯科医療の加算等で一定の補填があるものの、外来で短時間に多数の患者を見る場合と比べて効率が劣りがちである。したがってスケジュール最適化による生産性向上が経営上の課題となる。また、保険請求事務は煩雑であり、訪問ならではの算定要件(居宅療養管理指導や在宅医療の連携加算など)を満たす書類作成にも手間がかかる。これらの非臨床業務に割く時間が長いほど人件費コストが増し、利益率を圧迫する。さらに人的資源の面でも、訪問診療は特定の衛生士個人に負担が集中しやすいため、放置すればバーンアウト(燃え尽き)や離職を招き、結果として医院経営の安定性を損なう可能性がある。以上を踏まえると、訪問歯科における臨床上の困難さと経営上の効率低下は密接に関連しており、その両面に対策を講じていく必要がある。
訪問歯科衛生士が感じる5つの「ツラいポイント」詳説
1. 患者や家族とのコミュニケーションの難しさ
訪問歯科の患者層は高齢者、それも要介護度の高い方が中心である。認知症や脳血管障害の後遺症で意思疎通が容易でない患者も多く、口腔ケアの必要性を理解・納得してもらうだけでも一苦労である。実際、「認知症の方をうまく納得させられず治療が進まなかった」という歯科衛生士の体験談も報告されている。意思疎通ができないまま無理に処置を進めれば、患者に恐怖心や怒りを与えてしまい、暴言を浴びせられたり抵抗・拒否に遭うこともしばしばである。場合によっては暴力的な反応でケア提供者が負傷する危険すらあるため、訪問現場では細心の注意が求められる。一方、患者本人は消極的でも家族が熱心に口腔ケアを望むケースもあり、患者の意思と家族の要望の板挟みに陥る難しさも指摘されている。例えば「家族から依頼され訪問したが当の患者さんに『頼んでない』『やらなくていい』と拒否される」といった状況である。このように在宅では治療者・患者・家族の三者間調整が必要となり、外来以上にコミュニケーション能力が試される。相互理解に至らず気疲れしてしまう場面は少なくない。訪問歯科衛生士には傾聴と説明を根気強く続ける忍耐が不可欠であり、コミュニケーションストレスは訪問診療に特有の大きな負担となっている。
もっとも、この課題への対処としては、認知症ケアや嚥下障害に関する専門知識を身につけ患者対応力を高めることが有効である。実際に高齢者施設では認知症ケア研修を受けたスタッフの協力を得ることで患者の心がほぐれ、スムーズに口腔ケアが進む例もある。また家族や介護スタッフとの間では、訪問初期に十分な情報共有を図り「何をどこまで行うか」「嫌がる場合はどう対処するか」など事前に方針をすり合わせておくことが望ましい。訪問診療チーム内でケースカンファレンスを開き、対応困難な患者へのアプローチ法を共有するのも有効だ。コミュニケーションの難しさはゼロにできなくとも、組織だった知恵と工夫でリスクを減らし信頼関係構築の助けとすることができる。
2. 移動と機材運搬を伴う身体的負担
患者宅への訪問は思いのほか肉体労働である。診療車での長距離移動、重い往診用機材の持ち運び、エレベーターのない建物での階段昇降――これらが毎日積み重なれば若年層でも疲弊は避けられない。移動距離・回数が多くなればそれだけ体力的負荷は増大する。訪問先が遠方であったり渋滞路が多い地域では移動時間も延び、拘束時間の長さがさらに負担感につながる。夏の猛暑日に大荷物を抱えて汗だくになったり、冬場に冷え切った車内で長時間移動したりと過酷な気象条件にも晒される。台風や大雪の日でも患者の待つ自宅へ向かわねばならず、目的地に着く頃には既に疲労困憊ということも起こりうる。こうした状況下では、着いてからの診療行為にも支障が出かねない。実際、1日の訪問件数が多い職場では休憩を取る余裕が乏しく、移動中に弁当を急いで胃に流し込むような日も珍しくなかったと報告されている。このように休息不足のまま肉体労働が続くことで疲労の蓄積スパイラルに陥り、最終的に離職へ追い込まれるリスクも高まる。
中でも深刻なのが不自然な姿勢による身体への負荷である。在宅患者の多くは車椅子やベッド上で処置を受けるため、術者は前かがみ・中腰・床に膝立ちなど無理な姿勢で口腔内にアプローチせざるを得ない。長時間の姿勢維持は極めて難しく、実際に訪問経験者への調査でも「無理な姿勢で口腔ケアを行っている実態」が明らかになっている。この負担は蓄積すると慢性的な腰痛や肩頸部痛を引き起こし、業務に差し障るレベルの不調となる場合もある。あるケースでは、もともと軽度の腰痛持ちだった歯科衛生士が訪問診療を始めてから症状の悪化を招き、夜も眠れないほどの痛みに悩まされたという。痛みを抱えながら無理に働き続ければさらなる症状悪化を招く悪循環であり、本人にとっても医院にとっても大きな損失となりかねない。
対策としてはまず物理的負荷の軽減策を講じることが重要だ。訪問専用機材は年々軽量・小型化が進んでおり、例えば往診カバンやポータブルユニットも最新モデルでは5kg前後と扱いやすく改良されている。多少の投資であっても機材のアップデートはスタッフの身体を守ることに直結する。また移動動線の見直しも効果的だ。訪問先を地理的にまとめてルートを最適化することで移動時間と疲労を削減できる。専任のドライバーや訪問コーディネーターを配置し運転や機材準備の負担を衛生士から分担すれば、体力的・精神的ゆとりが生まれることは言うまでもない。実際、運転手兼任で業務を回していた体制に新たに人員を追加し運転や搬送を任せたところ、「帰宅後の疲労感がまるで違う」という声も聞かれる。さらに、腰痛対策として訪問診療専用の簡易チェアや体位変換クッションを活用し、可能な範囲で術者の姿勢負担を軽減する工夫も必要だ。定期的なストレッチや筋力トレーニングの指導を行い、スタッフ自身がコンディション維持に努めることも促したい。院長としては「痛みや疲れを我慢していないか?」とスタッフに気を配り、限界が来る前に業務量配分を調整するマネジメントが求められる。
3. 外来とのギャップによる戸惑いと業務過多
訪問歯科衛生士の仕事は、従来の外来業務と比べて求められるスキルや役割が大きく異なる。訪問では口腔ケアや摂食嚥下リハ、全身状態の観察など、従来のスケーリングやTBI主体の業務とは違った知識・技術が必要になる。初めて訪問診療に携わった衛生士が「外来との違いに戸惑った」という声は多く、専門外の領域を学び直すプレッシャーも感じやすい。また診療の合間には、介護保険や医科との連携に関する知識も要する。たとえば訪問歯科では居宅療養管理指導など介護保険サービスとしての位置づけもあり、ケアマネジャーへの報告書作成や他職種会議への出席など、歯科医院内に留まらない業務が生じる。これらは外来勤務では経験しない煩雑さであり、戸惑いと負担を増す要因となっている。
加えて、診療以外の事務作業の多さも訪問歯科衛生士を悩ませる点である。患者ごとに訪問記録を書き、口腔内写真や処置内容をまとめ、必要に応じて主治医や施設へ報告書を送付する。さらに診療報酬請求のためのレセプトチェックや加算要件の確認など、細かな書類業務が山積する。ある調査では、訪問歯科診療の開始にあたり最も大変だったことの2位に「カルテ記載(コメントや点数算定)」、4位に「算定時の提出書類」が挙げられている。それだけ訪問診療は事務処理の負担が重いということであり、歯科衛生士も診療後に深夜まで記録付けに追われているケースが見られる。特に紙のカルテや手書き記録に頼っている職場では時間効率が悪く、電子カルテでリアルタイムに記録入力できる体制に比べ作業量が増大しがちである。患者数が増えるほど事務作業も指数的に膨らむため、外来業務と同じ感覚でいるとあっという間に“サービス残業”が常態化してしまうだろう。こうした業務過多の背景には人員配置の問題もある。訪問診療チームに十分な人数がいない場合、1人の衛生士がケアから運転、器材準備、記録作成まですべて背負うことになり業務量が跳ね上がる。逆にスタッフ数にゆとりがあれば、一部業務を分担・専任化することで各人の負荷は軽減できる。「訪問歯科そのものが自分に合わない」のではなく「今の職場の体制が合っていないだけ」という場合も多いのである。
このギャップと業務過多への対応策として、まず院内体制の見直しが挙げられる。訪問診療の業務フローを洗い出し、診療補助や書類作成などを歯科助手や事務スタッフに委譲できないか検討する。例えば訪問スケジュール調整やレセプト点検は事務スタッフ、口腔ケアのサポートは別の衛生士や介護職、といった具合にタスクシフトを行えば一人当たりの負荷は確実に減る。またICTの活用も重要だ。クラウド型の訪問歯科専用ソフトを導入し、カルテ記入や情報共有をタブレットで効率化する医院も増えている。実際「紙から電子化したら記録時間が大幅短縮した」という報告もあり、初期投資に見合う効果が期待できる。さらに、訪問診療未経験の衛生士には嚥下評価や摂食機能療法の研修受講を支援し、必要な知識・技能の習得をバックアップすることが望ましい。外来との違いを埋める教育コストは経営的にも将来への投資であり、スタッフの成長が結果的に医院のサービス品質向上と評価額アップにつながるだろう。
4. 看取りやトラブル対応に伴う精神的ストレス
訪問歯科の患者の多くは高齢で基礎疾患を抱えており、終末期ケアの一環として口腔衛生管理を行っているケースも少なくない。そのため診療を継続していれば、避けて通れないのが患者の最期に直面する経験である。在宅療養中に容体が悪化し、ある日突然「先週訪問した○○さんがお亡くなりになった」と知らされることもある。頭では「寿命だから仕方がない」と理解できても、長く関わった患者の訃報に接すれば心に痛みが走るのは当然であり、これが積み重なれば精神的負担は計り知れない。「訪問診療では患者の死に直面する精神的負担が避けられない場合がある」と指摘される通り、この仕事に悲しみはつきものなのだ。加えて、認知症の進行や病状の悪化で以前できていた口腔ケアが困難になる場面に立ち会うたび、自分の無力さを感じて落ち込むという声も聞かれる。訪問歯科衛生士は患者の人生の最終章に寄り添う存在であるがゆえに、通常の歯科診療以上にメンタルヘルスへのケアが必要といえる。
また、患者や家族から寄せられるクレーム対応も衛生士の心労となる。訪問診療では診療内容だけでなく訪問日時の調整や費用負担、医療材料の管理方法など多岐にわたって問い合わせや苦情が発生しうる。外来であれば受付スタッフが一次対応するような電話も、訪問では担当衛生士の個人携帯に直接かかってくる例がある。ある事例では、患者家族から歯科衛生士宛に休日でも頻繁に電話相談が入り、「休みの日まで仕事をしている感じでプライベートがない」と大きなストレスを感じている様子が描かれている。にもかかわらず院長に相談しても「信用されている証拠だから良いことではないか」と取り合ってもらえず、限界を迎えてしまったという。このように勤務時間外にも及ぶ精神的負荷が訪問衛生士にはかかりやすい。さらに前述の通り一部の患者や家族から心ない言葉を浴びたり、セクシュアルハラスメント的な言動を受けるリスクも指摘されている。例えば要介護の高齢男性患者が若い女性衛生士に対し過度なスキンシップを図ってくるケースなど、在宅ならではの問題も存在する。閉鎖的な空間でマンツーマンになりやすい訪問診療では、そうしたハラスメントの被害に遭っても逃げ場がなく深い心の傷となりかねない。
精神的ストレスへの対応は組織として継続的に行う必要がある。まず院内コミュニケーションを活性化し、スタッフが悩みを相談しやすい雰囲気を作ることが第一歩だ。定期的なミーティングやカンファレンスで患者対応上の不安を共有し、院長や経験豊富なスタッフがフォローする。場合によっては産業カウンセラー等の専門家を招きメンタルヘルス研修を行ったり、個別相談の機会を設けても良いだろう。また電話対応については、診療時間外は歯科医師やコーディネーターが一次対応し衛生士個人に直接連絡が行かないようルール整備することが望ましい。実際、前述のケースでも明確な担当区分があれば本人の負担は避けられたはずだ。さらに訪問先で危険を感じるような事例が報告された場合、速やかにペアでの訪問に切り替えたり担当者を変更するなど安全配慮義務を果たすことが求められる。患者や家族に対しても、暴言・ハラスメント行為に対しては医院として毅然と注意・是正を促す姿勢を示すべきである。歯科衛生士が安心して働ける環境を守ることが、ひいては質の高い在宅歯科医療サービスの提供につながると言える。
5. チームメンバーとの人間関係
訪問診療は通常、歯科医師・歯科衛生士・歯科助手(場合によってはコーディネーター)から成る小チーム制で行われる。一台の車に同乗して行動し、一日中行動を共にして診療にあたるため、チーム内の人間関係が業務の円滑さとストレスに与える影響は極めて大きい。残念ながら人間関係の悩みはどの職場にも存在するが、訪問チームでは顔ぶれが固定され距離も近いため、メンバー同士の相性が悪い場合にはそのストレスが逃げ場なく蓄積してしまう。実際「車内が狭い空間で長時間一緒なので、苦手な人でも逃げられない」「お昼休みも全員一緒で気疲れした」といった声が現場から報告されている。特に歯科医師と1対1で行動する場面が多く、院長や担当医との価値観の相違は深刻な問題となりうる。例えば患者対応や治療方針に対する考え方が合わない場合、衛生士は強い葛藤を覚えることになる。ある例では、高齢患者の訴えに耳を貸さず一方的に診療を進めてしまう歯科医師に付き添わざるを得ず、「尊敬できない先生と1日行動を共にする状況」は非常に大きなストレスだったと語られている。このように上司である歯科医師の人間性や診療姿勢が訪問衛生士のモチベーションに直結する点は見逃せない。さらに、訪問現場ではトラブル発生時にその場のチームワークで乗り切る必要があるため、人間関係が悪いと情報共有や協力体制に支障をきたし患者安全にも影響しかねない。
人間関係の問題は一朝一夕に解決できるものではないが、健全な職場風土づくりによって改善は可能だ。院長はリーダーシップを発揮し、チーム内で互いを尊重し合う文化を育む必要がある。具体的には、日々の業務後に短い振り返りミーティングを行い、お互いの意見や感想を述べ合う機会を設けることが考えられる。問題点があれば建設的に議論し、功績があればきちんと称えることで、コミュニケーションの風通しを良くしていく。また、どうしても折り合いの悪いメンバー配置になっている場合は、人員配置やチーム編成を見直すのも選択肢である。訪問診療は少人数ゆえにメンバー変更が難しい面はあるが、例えばペアを替える、あるいは定期的に担当地区をローテーションするなどして固定化された人間関係に変化をつけることも有効だ。さらに、ハラスメントの芽は早期に摘み取る姿勢が欠かせない。従業員に対するハラスメント防止は事業者の義務であり、万一院内でパワーハラスメント的な言動が発覚した場合は厳正に対処する。訪問チーム内で意見の言いづらい雰囲気を作らないよう、定期的な個別面談を実施して本音を引き出すことも大切だろう。良好なチームワークは訪問診療の質そのものを左右する基盤であり、人間関係の課題に向き合うことは避けて通れない経営課題と認識すべきである。
よくある失敗と回避策
訪問歯科診療を巡る運用上の失敗例も押さえておきたい。まず多いのはスケジュール設定の誤りである。訪問件数を増やしすぎたり移動経路を熟慮しなかったりして無理な日程を組んでしまい、スタッフが疲弊してしまうケースだ。極端な例では「以前の職場は1日12件訪問で死にそうだったが、転職後は1日6件になりかなり楽になった」との声もある。このように件数を詰め込み過ぎればサービス品質の低下どころか人員喪失にも直結しかねない。適切な訪問件数と移動ルートの設定は経営者の手腕の見せ所であり、アポイント調整には綿密な計画が必要だ。特に新規に訪問診療を始める際は、当初は少なめの件数から開始してスタッフの様子を観察し、徐々に最適な量を探る柔軟さが望ましい。
次に役割分担の不備もありがちな落とし穴である。前述したように運転手や事務スタッフの不在は衛生士の業務負荷を跳ね上げる。最初は人件費節約のつもりでも、結果的にスタッフが燃え尽きて退職すれば大きな損失となる。専任スタッフの配置や外部人材の活用は決して贅沢ではなく、長期的な視点で見れば必要な投資といえる。さらに、情報共有不足によるミスも注意したい。訪問診療では患者の全身状態や他職種からの指示事項など把握すべき情報が多い。これを院内で共有していなかったために対応が後手に回り、家族からクレームを受けるといった失敗例も報告されている。対策としては訪問前後のブリーフィングを習慣化し、チーム全員で情報を共有・更新する仕組みを徹底することだ。昨今はクラウド上で情報をリアルタイム連携できるシステムもあるので積極的に取り入れたい。
最後にスタッフケアの怠りも大きな失敗に繋がる。忙しさのあまり衛生士の疲弊に気づかず放置してしまい、ある日突然「もう辞めたい」と言われるケースである。特に訪問診療では前述のように心理的負担が見えにくいため、経営陣が意識的にケアしなければならない。定期面談や有給休暇の取得推進、カウンセリングの案内など、心身のケア体制を整えておくことが肝要だ。「患者第一」も大切だがスタッフあっての医療であることを忘れてはならない。これらの回避策を講じることで、大きなトラブルに発展する前に未然に防ぐことが可能となる。現場の声に耳を傾け、失敗の兆候を見逃さない経営姿勢が求められる。
導入判断のロードマップ
ここまで挙げたような課題を踏まえ、訪問歯科診療を医院として取り入れるか、あるいは継続拡大していくかの判断には慎重さが求められる。以下に、導入可否を検討し運用体制を整えるための段階的ロードマップを示す。
①需要と提供体制の評価
まず自院の周辺地域における訪問歯科ニーズを把握する。高齢化率や要介護認定者数、近隣の介護施設数などを調査し、月あたり何件程度の訪問依頼が見込まれるか試算する。その上で、現有スタッフで対応可能な件数とのバランスを考える。需要が限定的であれば無理に専任チームを組む必要はないが、地域包括支援センター等からの要請が多い場合は本格的な体制構築を検討する。
②関連制度の理解と届出
訪問歯科診療に関わる診療報酬や施設基準を確認する。在宅患者訪問歯科診療料や訪問歯科衛生士指導料、居宅療養管理指導など算定可能な項目と要件を把握し、不備なく算定できるよう準備することが肝要だ。また一定条件を満たせば在宅療養支援歯科診療所として届出を行い、在宅患者緊急診療加算などの加算取得も視野に入る。行政への届出事項(診療所の管理体制や緊急時連絡体制の構築など)も事前に確認し、必要な手続きを済ませておく。
③人員計画と研修
訪問診療を担うスタッフの配置を検討する。歯科医師と歯科衛生士のペアを基本に、可能であれば運転・調整役のコーディネーターを加えた3名体制が望ましい。既存スタッフで賄えない場合は新規採用も視野に入れる。訪問未経験者が中心となる場合は、地域の在宅医療研修や日本歯科訪問診療協会等が開催するセミナーへの参加を促し、必要スキルを身につけてもらう。摂食嚥下や医療安全、感染対策に関する勉強会も院内で定期開催し、チーム全体のスキルアップを図る。
④機材・車両の準備
必須機材としてはポータブルユニット、往診用インスツルメントセット、可搬式バキューム、ポータブルエックス線装置(必要に応じて)、パルスオキシメーターや血圧計など全身管理機器が挙げられる。これらを収容できる往診バッグやワゴンも用意する。自家用車を用いる場合は機材の積載スペースや振動対策に配慮する。訪問先で動力コンセントが使えない場合に備えバッテリーも準備しておく。車両については、訪問件数が増えるならば医院所有の専用車を用意し、カーナビやドラレコを完備すると安全かつ効率的である。駐車スペースの確保が難しい地域では小型車が望ましい。
⑤業務フローと連携構築
実際の訪問診療の流れをシミュレーションし、院内の業務フローを策定する。訪問スケジュールの決定方法、予約変更が生じた場合のリカバリ策、院内技工や薬剤手配との連携などを洗い出し、スタッフ間で共有する。また地域の介護・医療機関との協力体制も重要だ。居宅療養管理指導の場合はケアマネジャーへの月次報告が必要なため、その手順を決めておく。さらに訪問看護師や主治医との情報交換ルール、緊急時の病院搬送体制なども事前に取り決めておくと安心である。他職種との連携強化は訪問歯科成功の鍵であり、実際でも「要介護者や家族への適切な対応、多職種連携などを自院のみで行うのは負担が大きい」と指摘されている。必要に応じて訪問歯科支援事業者や地域包括支援センターの力も借りながら、円滑なサービス提供体制を構築したい。
⑥収支シミュレーションと見直し
最後に導入した訪問歯科診療が医院経営に与える影響を定期的に検証する。訪問1件あたりの平均算定額と所要時間から、生産性や採算ラインを計算する。例えば1日5件ペースで月20日訪問した場合の収入見込みと、人件費・交通費・機材減価償却費等のコストを比較し、継続可能かを判断する。またスタッフの勤務状況(残業時間や疲労度、離職率など)も指標としてモニタリングし、無理が生じていないかチェックすることが重要だ。収支バランスが悪化していれば件数や訪問エリアを見直す、スタッフ負担が大きければ人員追加や休養日の設定を検討するといった改善策を講じる。こうしたPDCAサイクルを回すことで、訪問歯科を医院の強みに育てつつスタッフにとっても働きやすい環境を維持できるだろう。
なお、訪問診療を自前で抱えるのが難しい場合の選択肢として、外部との連携も考慮される。地域の在宅療養支援歯科診療所や訪問歯科専門の事業者と提携し、自院の患者を紹介・委託する方法である。例えば施設入居者の対応は専門チームに任せ、自院は外来診療に専念するといったハイブリッド型も一つの戦略だ。また非常勤の訪問担当歯科医師・衛生士を招いてニーズのある日に対応してもらう形も取りうる。いずれにせよ重要なのは、患者にとって最適な方法で口腔ケアサービスを提供しつつ、自院スタッフの疲弊を防ぐバランスを見極めることである。
出典
◆堀十月ら「歯科訪問診療の業務に関する歯科衛生士の意識調査」『日本歯科保存学雑誌』68巻3号, [2025年]
◆デンタルサポート(株)「独自調査の結果を発表!2024年版訪問歯科診療に対する意識調査」デンタルサポート コラム, [2024年]
◆D.HIT編集部 kasumi「訪問歯科衛生士はここがツラい!職場選びで注意することは?」フリーランス歯科衛生士GYM, [2025年]
◆歯科衛生士 まな「訪問歯科衛生士が辛いと感じるリアルな理由10選」歯科衛生士の転職応援ブログ, [2025年]
◆ハノワブログ「休みの日にかかってくる電話にストレスを感じている、訪問歯科で働く歯科衛生士さんへ」[2023年]
(本記事の内容は2025年9月現在の情報に基づいています)